とと姉ちゃんモデルは大橋鎭子【暮しの手帖】の創業者の生涯と年表
朝ドラ「あさが来た」の次のドラマは、家族を女の人をしあわせにする雑誌「暮しの手帖」の創業者をモチーフにしています
今から90年前に父親を10歳で亡くした女の子は喪主を務めました
残された母と二人の妹を幸せにしたい
家族を養う為に起業、女性のための雑誌を創刊し成功した一生懸命に生きる女性の話です
大橋鎭子がモデルのととねえちゃん
朝ドラ・NHK連続テレビ小説は
「暮しの手帖」創業者の大橋鎭子さんをモチーフ(モデル)にしています
大橋鎭子さんをモデルにしている小橋常子
小橋常子の口癖は「どうしたもんじゃろの~」
日本中の家族のため日々奔走する常子です
大橋鎭子と花森安治の関係
18歳で母親を心臓の疾患で亡くした花森安治
大橋鎭子の話に頷きながら、「君は親孝行なんだね、僕は母親に孝行できなかったから、君のお母さんへの孝行を手伝ってあげよう」
母親を病気でなくしていた花森さんの胸に大橋鎭子の決意が響いたのでした
二人は仕事のうえでは無くてはならないパートナーとなるのでした
大橋鎭子と花森安治はお互いに雑誌に関して補い合う関係でした
雑誌作りのほとんどを花森安治が手掛ける一方大橋鎭子は原稿をもらってくる能力が並外れていたといいます
人に好かれる、相手の気持にいつの間にか入っていける不思議な才能がある大橋鎭子
二人の才能がまさに「暮しの手帖」を作ったといえるでしょう
大橋鎭子の結婚
鎭子さんは家族の幸せ、仕事を優先して生涯結婚はしませんでした
大橋鎭子と家族
父武雄(たけお)が亡くなった後は母親の久子と二人の妹、晴子と芳子の3人で力をあわせて生きていきました
「父に言われた通り母や妹を幸せにしなくてはと思ったのです」ちちに変わって自分が家族を幸せにしなけっれえばと心地決めたのでした
大橋鎭子の年表
1920年3月10日大橋武雄(たけお)さんと久子(ひさこ)さん夫婦の長女として大橋鎭子(おおはししずこ)
生まれる
武雄は父親を結核で亡くし10歳の時に父の従兄弟で深川の木材商・大橋谷吉(おおはしたにきち)きん夫妻の養子でした
北海道帝國大學農学部へ進学し後、日本製麻株式会社に入社し、翌年に宮原久子さんと結婚しました。
1921年父武雄は製麻工場の工場長として東京から、北海道に赴任ました。
その後大橋鎭子には2歳下の晴子(はるこ)
5歳下の芳子(よしこ)の妹ができました。
1925年父武雄は結核と診断されます。
翌年東京に戻り鎌倉の病院へ入院しました。
1930年10月1日父武雄息を引き取る
父の葬儀で10歳の大橋鎭子が喪主を務めました
1937年(17歳)小学校を卒業した大橋鎭子は東京府立大六高等女学校へ進学しました
大六高等女学校で恵まれた親友で「暮らしの手帳」創立メンバーとなった中野家子(なかのいえこ・旧姓は神田)は生涯の親友となる
女学校3年生(14歳)の時練り歯磨きを作って売ろうと考えました
女学校を卒業後後日本興業銀行に入行しました。
ここでは調査月報の編集の手伝いをし、この経験はのちの「暮しの手帖」のレイアウトをする上で非常に役に立ちました
1940年(20歳)3年努めた後に、日本女子大学校へ進学しましたが、体調を崩し半年で退学をする
1941年(21歳)新聞求人欄で日本読書新聞社の募集を見つけ入社する
この年の12月真珠湾攻撃が起こり、太平洋戦争に広がりました
1945年3月10日大橋鎭子さんと妹芳子さんの誕生日に東京大空襲が起きました
戦争は5ヶ月つづきました。
8月15日敗戦
日本読書新聞のメンバーが復員した後、編集長の田所さんに自分で事業を始めたい事を相談します
すると当時34歳の花森安治(はなもりやすじ)さんを紹介されるのでした
1946年3月出版社「衣装研究所」を立ち上げました
「スタイルブック」を発行しました
1946年(26歳)銀座8丁目の日吉ビル3階に衣装研究所を設立する
1948年(28歳)美しい暮らしの手帖を創刊しました
1949年(29歳)美しい暮らしの手帖の5号に昭和天皇第一皇女・東久邇ナリコさんの「やりくり記」を掲載しました
1950年(30歳)別冊「すまいの手帖」を発行しました
1953年(34歳)暮らしの手帖22号から、雑誌名より「美しい」を外しました
1954年(35歳)暮らしの手帖26号に初めて商品テスト「ソックス」を掲載しました
1956年(36歳)花森安治と編集部が菊池寛賞を受賞する
1958年(38歳)アメリカ国務省の招待でアメリカ視察旅行へ4ヶ月回る
独創的な作り方に対してアメリカのペアレンツ・マガジン社よりペアレンツ賞を受賞する
1960年(40歳)企業と共同研究し日東紡の共同開発によるふきんを発売する
1963年(43歳)「シルバークイーン」という企業と共同研究をし開発をしたステンレス製の流し台を発表
1964年(44歳)アラバマ物語を刊行する
1966年(46歳)火事をテストするを掲載する(テストには家を一見燃やした)
スポック博士の育児書を刊行する
1968年(48歳)93号にもしも石油ストーブがか火がでたらを掲載するバケツの水で消化できるとした「暮しの手帖」と水をかけずに毛布で消化するという東京消防庁の主張が対立した
公開実験が行われて「暮しの手帖」に軍配が
1969根(49歳)暮らしの手帖が100号をむかえました
「すてきなあなたに」を始める
「おそうざい12ヶ月を刊行する
1970年(50歳)からだの読本1を刊行する
翌年に、第25回毎日出版文化賞(人文・社会部門I受賞する
1972年(52歳)おそうざいふう外国料理を刊行する
1974根(54歳)会社のある銀座の日吉ビルが取り壊しの為に港区六本木に本社を移転する
1975年(55歳)「すてきなあなた」を刊行する
1978年1月14日花森安治が心筋梗塞の為永眠する(享年66歳)
1982年(62歳)母親久子が永眠する(享年82歳)
1995年)75歳)東京港区東麻布に本社を移転する
2003年(83歳)東京都新住区北新宿に本社移転する
2004年(84歳)くらしの手帖社主に就任
22010年(90歳)自伝くらしの手帖とわたしを刊行
2010年(93歳)3月23日肺炎の為自宅にて永眠する
2016年意匠研究所創立より70年を迎えました
83歳まで暮らしの手帖社の社長を務める
92歳まで社主として出社していました
2013年東京の桜の花が咲いた頃93歳で旅立ちました