とと姉ちゃん小橋竹蔵モデルは大橋武雄さんその生涯と子孫
朝ドラ「とと姉ちゃん」でヒロイン小橋常子の父親のモデル大橋武雄さんもなんと結核で父親を亡くしていました
とと竹蔵のモデル大橋鎭子武雄さんの親も結核だった
深川の材木商は父親方の親戚だった
わずか10歳の大橋鎭子さんが喪主に
大橋武雄さんの父親も結核で早くになくなってしまいました
10歳の時、父親の従兄弟である東京深川の材木商である大橋谷吉さんときんさん夫婦の養子になったのでした
大橋武雄さんんは北海道帝国大学農学部に進学した後東京に戻ったのに北海道に縁のある日本製麻株式会社に入社したのでした
就職した年に宮原久子さん(大橋鎭子さんの母親)と結婚したのでした
1921年に大橋武雄さんんは製麻工場の工場長として赴任することになりました
その時、妻の久子さんと1歳の大橋鎭子さんを連れて行きました
その後2歳下に晴子(はるこ)さん、5歳下に芳子(よしこ)さんが恵まれました
1925年の事、風邪を引いた武雄はなかなか回復しませんでした
次第に病状は悪化してやがて肺結核と診断されたのでした
とうとう次の時には東京へ戻り鎌倉の病院へ入院しないといけなくなりました
母の手作りの服で貧乏だとは思われない洋服に
父が仕事を辞めなければならなくなったために大橋一家は東京の牛込にある祖母の家で暮らす事になったのでした
この時貧乏でも母の久子さんは美術学校で学んだ編みこみのセーターやビーズ刺繍の服を3姉妹の為に作ったのでした
まるで貧乏だとは思えないような思いを味わって過ごしたそうです
その後一家は父の病院のある鎌倉へ引っ越す事になったのでした
病床の父との約束があった
家族全員で父親の看病をしたのでした病気は良くなりませんでした
1930年10月10日にとうとう小学校へははの久子さんが現れてお父さんの病気が悪いからすぐ病院へと家族4人で病院へ駆けつけたそうです
その時に病床の父は鎭子さんに「鎭子は一番大きいのだからお母さんを助けて晴子と芳子の面倒を見てあげなさい」と言い鎭子さんは大きな声で「はい、わかりました」と答えるのが精一杯だったのでした
ご臨終です
わたしはその時泣きませんでした
そして、父に言われた通り母や妹をしあわせにしなくては・・と思ったのです
鎭子さんはそう振り返っています
父は家族が見守るなか息を引き取ったのでした
結核で38歳での若さでした
10歳の大橋鎭子が喪主を務めました
父武雄の葬儀の時は母の久子は一歩退いて長女の鎭子さんを前面に立てたのでした
父親の武雄さんが亡くなってからと言うもの父に変わって自分が家族を幸せにしなければ・・・と心に決めたのでした