あさが来た最終回新次郎への感謝とこれからの女性へのメッセージです
朝ドラで9月から放送されて来た「あさが来た」あさと新次郎を通じて、夫婦のありかた、今を生きる女性へ向けた言葉が随所に散りばめられていたように思います
史実でも広岡浅子は勉強会を開催しました
あさの実家が提供した別荘が夏期寮になりました
事業家だけでなく社会貢献に女性の教育に情熱を注いだ人生でした
春の訪れを待ってあさの初の試みである勉強会が、白岡家の別荘で開かれました
勉強会といっても窮屈さはなくてピクニック気分で木の下に集まって田村宜や千代が料理を並べて、今井忠嗣の嫁、とわが果物の差し入れを持って来て、さちと娘たちが配るのを手伝いました
あさと成澤泉が姿を現しますとこの日の話して手である、とわと田村宜ちゃんが題目を伝えるのでした
とわは西洋料理の研究について話をします、田村宜ちゃんは留学先で見聞きした諸外国の女性について話すつもりでした
まずは、あさの話から始まります
昔は何をするにも不便でしたが今は電話も郵便も汽車もあって便利な世の中になりました
昔の方が良かったなどとは思いませんが、どこか生きづらい世の中になってしまったのは何故なのでしょうか
あさが話始めると、女性達は真摯に耳を傾けるのでした
みんなが幸せに成るための武器は、銃でも大砲でも悪口でもあらしまへん、人の気持ちを慮る事のできる優秀な頭脳と、柔らかい心、それさえあったらそれで十分なんだす
田村宜、学生達、とわ、さり、千代、成澤泉も静かにあさの話を聴いています
若い皆さんはこれからどないな職業についても、家庭に入っても、その二つがあったら大いに人の役に立つ事ができます
日本どころか世界の役にたてる事がこの先、仰山ありますのやしょげてなんかいてんと、よう学んで、頑張ってくれなはれあさが話終えると女性から感動の拍手が湧き起こりました
あさは学ぶ事の素晴らしさを一人でも多くの人に伝えていきたい、幼い頃からなんでどすが口癖でした
納得できるまで聞き続ける、そこで得た知識がどんどん広がり実を結びます学ぶ事の喜びを知りました商いにおいても同じです
もし、誰かに「なんでだす?」と聞かれたら柔らかい心で接してそうして学んだ事を教えてあげられたらいいそう話すのでした
日の出女子大学校の祝辞でも述べたように、学問というのは特別なものではない一人一人が学んだ事が柔らかい力となって、平和な世の中がつくられて行くしかも、柔らかい心ということでは、女性の方が男性よりも其の能力を発揮しやすいのです
時にはあさの旦那様の新次郎のように、男性であってもあさよりずっと柔らかい人もいます
あさが実業家として仕事を続けられたのは、ひとえに新次郎の理解と支えがあったからなのでした
あさは生きている限り何かを学びつづけて、それが次の世代でだれかの役に立つように力をつくしていきたいと思っているのでした
1906年(明治39年)広岡浅子は三井三郎助高景から日本女子大学に対して、軽井沢の夏季学生寮が寄付されたのでした三井家の別荘地の一角にある建物です
一体三井家はどれだけの資産を持っていたのかと思うほどです
三井三郎助高景というと、小石川三井家の当主です
広岡浅子が弟のように可愛がっていた人物なのです
浅子とともに日本女子大学には多大な貢献をしてきた人物なのです
三井家の別荘には、成瀬仁蔵もなんと病気の療養のために滞在した事がありました
軽井沢の別荘では広岡浅子や三井家の人達と女子大や日本の将来についてしばしば議論をしていました
夏期の学生寮は、成瀬仁蔵により「三泉寮」と命名されました
三泉寮の運営は学生にほとんど任されており、豊かな自然なかで精神的な成長の為のプログラムが組まれていました
この日本女子大学の夏季の学生寮を真似して、他の企業や大学が軽井沢に夏期寮を建設するのがトレンドのようになったのでした