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加野銀行の淀川生命保険会社のモデルその後と現在は?

朝ドラ「あさが来た」ドラマでは保険会社をいくつか合併して淀川生命が誕生しましたがモデルは大同生命という現在も続く老舗保険会社に成長しています

加野銀行のモデルとなる加島銀行はなんとか大阪恐慌を乗り越えましたが、その後、世界恐慌による昭和恐慌により大打撃を受けました

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その中で鹿島銀行は日本銀行の支援を得て昭和緊急恐慌を乗り切ろうと頑張ったのですが残念な事に昭和12年に廃業しています

その一方で淀川生命のモデルとなった大同生命は元々が堅実経営がモットーだっただけに恐慌による影響を最小限にとどめ、更に鹿島銀行を生理したことにより経営の資源を大同生命に集中させた事もあって経営は順調に推移するのでした

大同生命は3つ保険会社が合併してできたものだったのです
朝日生命(現在の朝日生命とは全くの別会社です)護国生命・北海生命という3つの生命保険会社でした

生命保険の競争が激しくなっていた当時合併して活路を見出そうとして失敗する例も沢山あったそうですが、その中でも大同生命の合併に関しては数すくないシエ高齢として高い評価を受けたと言っても良いでしょう

この時の大同生命の社長になったのは朝ドラ「あさが来た」榮三郎のモデル、広岡久右衛門正秋でした
その後1909年に二代目として浅子の娘亀子の夫広岡継続が社長に就任します

この広岡恵三が指揮してた広岡家の経営の特徴は事業の規模が大きくなったとしても増資を行わない事でした
広岡浅子が亡くなった後会社の株の9割以上の5千4百20万株を広岡家が所有していましたが、この増資をしないという方針を貫いた理由には保険会社がもっている公共的使命を果たそうとしていたからなのです

株式を広岡家に集中させる事によって利益の大部分を加入者に提供でき、代理店や従業員にも分配できると考えていたのでした

戦後においては大同生命はなんと保険の契約者を社員とする相互会社として再出発をします
高度経済成長にともなって業績を伸ばすのでした
どの保険会社もそうですが、従来の保険業だけでは大手の保険会社に対抗するのは難しくなって行きます

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そこで1970年代には中小企業の経営者向けの保険を開発します
営業の対象を一般個人の人から企業へとシフトしたのでした

その後は税理士会などの各種団体と提携することにより経営者向けの保険や福利厚生を勧めるという独自ビジネスを開発して成功を治めるのでした

大同生命保険は2002年(平成14年)には相互会社から株式会社へと組織も変更して東京証券取引所への上場も果たしていました

2004年)平成16年)には太陽生命と経営統合を果たし持株会社T&Dホールディングスを設営つしました

2001年(平成13年)に経営破たんした東京生命を大同生命と太陽生命が再建してこのT&Dホールディングスの傘下に入れました

その歴史を遡るとなんと真宗信徒生命にいきつくのでした
現在は大同生命の保険の契約は9割以上が企業向けになっています

社会貢献や文化事業にも目をむけており、長年にわたり全国障害者スポーツ大
会に特別協賛しています

さらにまるで浅子の意思を継いでいるように、毎年複数の大学で寄付講座を開設して中小企業経営者たちに経営、ビジネスに関する知識、スキルの習得の場を提供しているのでした

保険や福利厚生の分野で中小企業を支える大同生命の事業は社会に大きく貢献しているのでした
第一次世界大戦や第二次世界大戦、戦後のバブル経済の崩壊の影響で生命保険の世界も影響が大きく出ている昨今、合併や倒産するところが続発しています

このようなさまざまな試練にあい、現在に至るまで大同生命が存続しているのはひとえに創業時の精神を守り続けて来たからではないでしょうか

ここに広岡浅子の理念が大同生命保険を通じて今もなお生き続けているのでしょう

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