あさが来た 海千山千のあさとナルさまの長尻で最強コンビの説得術
朝ドラNHK連続テレビ小説ではあさが成澤泉(なるさわいずみ)に賛同する事を決めたら女子大設立に向けて全面的に協力する事になり誕生した名コンビは早速、支援を求める為に訪問のローラー作戦に出ます
東京方面は浅子とナルさまで(成瀬仁蔵)成功!でも大阪は広岡信五郎では弱くて失敗
史実では多くの政治家や実業家に会って支援を求めるのには人脈が不可欠でした
この時に有効に活用したのがナルさま(成瀬仁蔵)は大阪府知事の内海忠勝を通じて同郷の長州出身である伊藤博文を紹介されました
他には西園寺公望とは前から面識があって双方の紹介でどんどん他の政治家に出会う事ができたのでした
浅子は最強の実家である三井家をフル活用して広岡浅子の人脈がどんどん活用されました
この当時はまだまだ電話すらも普及していなかったのにどうやってアポイントを取って訪問したのでしょうか?
この時代は人に会おうとした時はその方の自宅又は職場へ直接訪問するしかなかったのです
効率が悪いですね
その上、政界や財界の要人となると多忙を極めるので一度で会える事は稀だった事だと想像します
何度も何度も通って会えた時には言葉をつくして説得する方法を繰り返したそうです
一方ナルさま(成瀬仁蔵)は「あさが来た」で熱弁を振るったように
とにかく粘り強い交渉者でした
教育についていくらでも語って成瀬の長尻と言って有名になりました
広岡浅子は持ち前の自信たっぷりで強気の交渉で成功を治めます
アポ無しでいきなり来られた面々はどちらが訪問してもやっかいだっただろうと想像できます
浅子とナルさま(成瀬仁蔵)が上京している間に広岡信五郎も大阪で大奮闘
大阪の財界人の説得を試みた信五郎は芝川さん鴻池さんといった大阪財界の有力者に実際に会って発起人になって欲しいと依頼しました
所が役不足なのか信五郎の説得は失敗に終わってしまったのでした
女子の教育にはまだまだ信五郎は情熱が不足していたのでしょうか
女子高等教育の意義を理解してもらえなかったようです
あの信五郎がせっかく動いてくれたというのに・・・
大阪の事務所からは東京のナルさま(成瀬仁蔵)宛に失敗した内容を(事情)を浅子に伝えて欲しいと手紙を送っています
その手紙を受けて最強の浅子が大阪にも乗り込みます
後にはこの大阪の財界人も多くが賛成してくれたのでした
なんせあの大隈重信が舌を巻いたという位に弁が立つのです
恐るべき浅子の手腕
とうとう1897年(明治30年)3月には発起人会が開かれました
創立委員が選出され、委員長には近衛篤麿、会計監査が渋沢栄一と住友友純(すみともともいと・住友の当主で西園寺公望の実弟です)委員には土倉庄三郎、成瀬仁蔵、広岡浅子の他に大隈重信、岩崎弥之助(三菱財閥二代目総帥)たちが名前を連ねました
成澤泉とはモデルのWiki成瀬仁蔵・女子教育の父を年表で見る
あのあさが泣いているなんて
成瀬仁蔵著「女子教育論」に泣いた!何が書いてあるの?
この後には議員や新聞記者を招待して創立披露会も開催されました
女子大設立という構想に対しては冷ややかなる視線もあったようですが、浅子が集めた有力者が揃っていればこのまま二人が目標としている女子大設立が目前のように思えました