あさが来た 日本女子大に残る創立事務所日誌にはナルさま達驚く事実が!
朝ドラ「あさが来た」は日本女子大の創立に関わった広岡浅子を成瀬仁蔵が描かれています、二人が出会った後に直ぐのこの「創立事務所日誌」史料には女子大設立までの道のりや設立運動の具体的な動きが分かります
創立事務所日誌は全部で4冊あります
7月17日に日誌始まりました、どうやら人を雇い入れて事務所を開いたようです
ここでは当時の様子を読んで、当時支援してくださった錚々たるメンバーの名前と、下田歌子、松方正義、渋沢栄一について書きました
創立事務所日誌、記述の一部をのぞいてみました
7月17日(金)新田氏此より日ヨリ出勤執務 成瀬広岡両氏神戸行き
7月18日(土)成瀬広岡両氏神戸ヨリ帰阪
日記の1番目の1頁に「成瀬、広岡両氏神戸生き」と広岡浅子が創立準備当初から、成瀬仁蔵と行動を供にしていたこ
と分かります
事務所を開いたその日から二人は一緒に行動しているのが分かります
兵庫へ行った時は兵庫県知事や師範学校校長などの賛同をとりつける事ができたようです
続いて8月も10日~27日まで事細かく書いてあります
その中には新潟へ出張中の成瀬仁蔵に対してお金を送金したり、土倉庄三郎や下田歌子(しもだうたこ)に会ったり
と広岡浅子の行動の素早さがわかります
そして秋にはいよいよ広岡浅子と成瀬仁蔵は一緒に上京して今度は多くの政治家や実業家に支援を求めることになる
のです
11月9日に大阪に送った広岡浅子の手紙の内容を読むを賛助員や賛成員になってくれた錚々たる方々が記載されてい
ます
西園寺公望・伊藤博文・大隈重信・近衛篤麿(このえあつまろ・公爵で学習院長)渋沢栄一・大倉喜八郎(おおくら
きはちろう・大倉財閥の祖)松方正義・発起人は伊藤博文夫人・大隈重信夫人・渋沢栄一夫人など驚くような方々の名前が記載されていたのでした
大隈重信や西園寺公望など政財界の重鎮を粘り強く説得するなど、創立までの活動が事細かに記録されています
●松方正義(まつかたまさよし)とは
財政指導者として手腕を発揮した人物です
花の天保6年組の一人
大隈重信失脚後に大蔵卿に任命される
近代的財政金融制度の基礎を確立して本格的起業隆盛の道を開いた功績者として高く評価されています
●渋沢栄一(しぶさわえいいち)に叱られたエピソード
他の銀行が不景気の煽りを受け倒産した時に、加島銀行が危ないという噂が広まりました
大学設立どころでなくなった広岡浅子が大隈重信夫人のアドバイスにより渋沢栄一に電話をします
ぬくもりのある懐かしい声で浅子の訴えに対して「そんなに深刻な問題ではないでしょう」と答えたそうです
あの広岡浅子女史が追いすがって事情を説明すると「何を言っているのですか?
たとえ恐慌になったところで、政府がそのまま放おって置く訳が無いでしょう
そんなに自分の事だけ考え、足元を見ていたら大局の展望を失います」
今まで渋沢栄一からは直接的な返答というものは少なかったのですがいつも話しているうちにハッと気づかせてくれるのでした
恐慌が起これば日本経済の危機になるのに加島屋だけの安泰に目を奪われている小さい事だと見ぬいていたようです
成澤泉とはモデルのWiki成瀬仁蔵・女子教育の父を年表で見る
あのあさが泣いているなんて
成瀬仁蔵著「女子教育論」に泣いた!何が書いてあるの?
●下田歌子(しもだうたこ)
実業界の三女傑の一人です
美濃岩村藩出身です
幼い頃から漢字と和歌を習いました
才女として名高かったといわれます
維新後に宮中に出仕え礼儀作法や和歌を教えました
結婚をして一旦は宮中仕えを辞めましたが夫が亡くなった後に
華族女学校(現在の学習院女子大学)の教授として迎えれらました
ヨーロッパの視察などを経て皇族や華族だけはなく一般の女史教育の必要性を訴えるようになりました
その後に実践女学校(現在の実践女子大学)を創立しました
初代校長です