成瀬仁蔵と広岡浅子「女子教育論」との出会いから女子大誕生まで
朝ドラ「あさが来た」ではナルさま・成澤泉(なるさわいずみ)とあさが出会いました、成瀬仁蔵はアメリカに留学して帰国した後に女子にも高等教育が必要だと考えていました
日本で才女の女子大学を設立する為に奔走していたのです
浅子は成瀬仁蔵との交流を通じて教育思想に共鳴してゆくのでした
45、6歳の時にある知人の紹介で成瀬仁蔵氏から国には女子高等教育の必要性を説かれたのです
これこそが私が少女時代から一時も頭を離れなかった日本の女子を哀れな境遇から救わんと熱望していた事を果たし
てくれる一筋の光であるかのように思えたのです
しかしこの私の微力で重大な教育事業を補佐することを全うできるのか心配しました
それでも精神一到何事かならざらんと断然意を決して、日本女子大学発起者に加名する栄誉を担いました
「一週一信」の文章に少し手を加えました・女史代学校の発起者となるより
九州の炭坑へ成瀬仁蔵の「女子教育論」を持って行ってひもといた浅子
繰り返して読むこと3回涙が止まらなかったと述懐しています
成瀬仁蔵は真に女子教育をたくすべき人だと感じた浅子は成瀬仁蔵に協力する事を決意したのでした
やがて広岡浅子は資金援助だけでなく、政財界の有力者に協力を呼びかけ成瀬仁蔵の協力者となったのでした
かつて炭坑で炭鉱夫を叱咤激励したように、当時の浅子は成瀬仁蔵を叱咤激励して資金援助だけではなくまるで自分
自身が日本のジュオし教育そのものを創り上げる存在であるかのように政財界の有力者を巻き込んで政財界の有力者
の協力を取り付けていったのでした
そこにはなんと伊藤博文、西園寺公望、松方正義、大隈重信などなどの各界のなだたる同時代を代表する時代の
リーダー達からの協力を取りつけたのでした
その結果、苦労と困難の末に、大学設立発案から7年後の1901年についに東京都文京区目白台に
日本初の「日本女子大学校」が誕生したのでした、後に日本女子大学となります
その時の喜びを浅子は
当時みずからの事業は完成したというのではななく、なお苦心惨愴一刻も枕を高くして眠る事ができない状態でありました
しかして自分の微力を貸した女子高等教育は今や、創設時代とて盤根錯節を切り開いていなねばなりませんでした
この間実に7年の永き歳月でありました
しかし成瀬仁蔵氏の熱誠はついに天を動かし、多くの賛助者の非情なる助力を得て、
明治34年4月、日本女子大学開校
の喜びを見るに至りました