あさが来た阪神紡績を辞めたら銀行の相談役これがわしの生きる道だす!
朝ドラ・ある日しげしげと社長を務める尼崎紡績事業報告書を見入っていた新次郎、日清戦争の影響で尼崎紡績は女工が足りないくらいの景気の良さだと言うのに、わし尼崎の阪神紡績を辞めて来ましたとあっさり言う新次郎、驚くあさにもっともらしい事を言う新次郎
和歌山から親の許しを得て上京した藍之助が加野銀行の前で掃除をしています
そこへあさがやってきました
銀行の前を子どもたちが戦争後こっごをしながら賑やかに走り去って行きます
昔は刀を持ってはしゃいでいたのに今では子供は手にぴすとるを持っていました
その様子を見て、手に持つもんは変わって来てますなぁ~
朝食の時に新次郎に子供の遊びについて話題にするあさ
新次郎もそりゃあ子供の気合も違ごてますやろうなぁ~
昔は戦言うたらお侍さんのすることやったのが今では国民皆兵隊さんの世の中やよってな
へえ、戦が始まる前は皆関わりたくない感じやったのに炭坑の子達も暇みつけてはエイヤエイヤやってましたわ
おあささまはもう加勢したらあきまへんでぇ~
うめが釘を刺す
へえもうてっぽうやらでてきたらもう加勢もできしまへん
それに景気もようなって来ましたなぁ~
東京では缶詰屋が繁盛し始めたと聞きました
新次郎の会社では
この景気で女工さんの数足らんようになってきたんや
そりゃあ難儀だすなぁ
そやけど~こない景気ええままなんてありますのやろか?
うちはどないしても心配で
心配してるのか神妙な顔をしている新次郎
そやなぁ~
そやけどわてもう辞めて来てしもたからなぁ~
はい??何をと尋ねるあさ
やっぱりこの九州のお菓子美味しいなぁ
ぱくついている新次郎
辞めてしもうたって何をだす?
あ・・何て尼崎の阪神紡績をな
お茶を飲もうとしている新次郎が
大した事なさそうに言う
えええ?驚くあさ
あさとここ何年か千代の進む路の事とかよう考えてきましたやろ
それでふと思いましたんや
はて?この老い先長いにしろ短いにしろ
わての道はこれでええのんやろか?
ん・・やっぱりちゃいますなぁ~ってな
てなではございまへん
社長辞めはるなんて!
イイヤ!あっこの会社はわてがいなくても十分やっていけるんや
これからはあとは家業に専念させてもらいます
家業言うたらそりゃあ有り難い事だすけど
そない言うても加野商店はわて名前置いてるだけであさと九州の亀助に任せっぱなしだすしなぁ~
せや銀行は相談役やさかいこれからも栄三郎や皆の愚痴なんでもきいてやりますな
そう言って席を立って出掛けて行くのでした
あさが思わず聞く
どこいきはりますのんや?
せや、相談役!これこそがわての道だす、ほな行ってきま
待っておくんなはれ!
あさが止めてもトットと出て行く新次郎でした
新次郎が出て行ったのち
ああもう
なんてことを・・大きなタメ息をついて
嘆くあさでした
史実では戦争のあと、景気の循環が早くて好況になります
尼崎紡績は良いタイミングで創業したといえるでしょう
一方炭坑業の方はそうはうまく行かなかったようです
なかなか利益がでなくて、傷が浅いうちにやめた方がいいのでは?という声もあったようです
それでも広岡浅子は潤野炭坑の開発に本腰を入れて取り組んでいました
そしてその時の粘りと頑張りのおかげで見事再開発は成功するのでした
1903年(明治36)に尼崎の融資と大阪財界の出資によって尼崎紡績が設立され広岡浅子の夫広岡信五郎が初代社長に就任していましたが実はこの会社の運営も浅子が裏で活躍していたのでした
後に広岡家に亀子に娘婿の恵三が大阪電気軌道初代社長に就任しますが、この時にリスクを察知して広岡信五郎は尼崎紡績を辞任します
本日の「あさが来た」のシナリオは新次郎の身勝手のように描かれていますが、実は史実に沿っていると言えるようです