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京都白川高等女学校のモデルは今もあるの・日本の女子教育の実情とは?

朝ドラ「あさが来た」の明治時代の千代が通う女学校って実在するの?その昔、江戸時代女子に学問は不要と考えられていました、明治33年当時の学校の制度を見てみます

千代が入学するのは寄宿舎がある京都白川高等女学校(京都白川女学校)

どうやら今でも京都の上京区に日本最古の官公立の女学校があるようです
千代のモデルである広岡亀子が卒業したのが京都府高等女学校(現在の京都府立鴨沂高等学校・きょうとふりつ おうきこうとうがっこう)です
伝統校とWikipedia(ウィキペディア)でも紹介されています

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明治時代の女子教育を少し紹介します
義務教育は尋常小学校の4年間に統一されました
既に小学校を6年

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「あさが来た」のドラマの中でやっと読んだ!と高等女学校の寄宿舎で同室になった謎の女がうれしそうに叫びますが、もしかしたら、浅子が読んで感動した成瀬仁蔵が書いた「女子教育」を読んでいたのかもしれません

明治の中頃に女だてらに加島銀行銀行や潤野炭坑の経営をしていた広岡浅子もある日1冊の本に出会ったのでした

成瀬仁蔵が書いた「女子教育」という本です
本に書かれていた女子高等教育の必要性に感銘を受けたのでした

「女性に学問は不要」という三ツ池の古いしきたりの元、勉学の道をあきらめざる得なかった広岡浅子
女性にも教養があれば男性と動揺に社会で活躍できるのにと常に胸に秘めていたのです

この「女子教育」という本をきっかけに
広岡浅子は成瀬仁蔵を支援して女子大学校設立の為に奔走するのでした

明治の時代には現代のように女性が男性と等しく学んで大学で高い教養を身につけるなどは考えられない時代だったようです

明治時代になると、国んの指導者層の知識と関心の目が欧米の文明へと向けられるのでした
そこで人材を育てる事が国の発展に繋がると痛感して教育の重要生が解かれるようになったのでした

これは女子に対しても同じでした
1871年(明治4年)岩倉使節団に同行して、5人の少女がアメリカに留学しました
その中には後には女子英塾(現在の津田塾大学)を設立する津田梅子、女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)教授を務めていた永井繁子(ながいしげこ)がいました

その後1872年(明治5年)には学制が公布されました
男女問わ合ず全国民の就学の必要性が訴えられたのでした
これで学校は一部の特権階級のものではなく、社会に出て自らの身を処する手段とされて各地に学校が誕生しました

女学校も誕生しました
教育機関も広がっていきました

ところがここから一足飛びに現在の日本の教育のようになった訳ではありませんでした

この学制は費用を国民負担としていた為に反発する一揆も起こったのでした1879年(明治12年)には廃止されました

この代わりに制度を緩和して教育令が公布され、その後には何度も改定されました

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おかげで女子の就学率はなかなか伸びないのでした
この時代の大多数の庶民は当時の女子には将来妻になり、母に成ることへの自覚や家庭で役立つ技術を学ぶ事を求めていました

まるであさが来たの千代ちゃん状態ですね

そのせいで世間の人々は学校について女子を女性として知性をつける事せず、女性に必要な技術を教える事を無視しているという印象を持っていたのでした
この考えが変わるまでに数十年者月日が必要でした

明治時代の初等教育(小学校)の就学率ですが
明治6年 男子40% 女子15%
明治20年 男子60% 女子28%
明治30年 男子80% 女子50%
明治35年 男子95% 女子87%

明治の後期になりやっと女子も小学校へ通うようになりました
それでも中等教育(現在の中学校・高校)については、日本の女子中等教育は私学が主導で始まりました

その中で特に大きな役割を果たしていたの欧米のキリスト宣教師や教育家、西洋の文明社会で生きてきた人々によて明治初期から大小さまざまな女学校が設立されたのでした

明治の中期になると全国に公的機関として小学校が整備されて女子の就学率が上昇しました
中等教育へと進む女子も増えつつありましたが、公立の中等教育機関の整備が追いついていなかったようです

その不足を補充するように私立の女学校が次々を開校していくようになりました
ところが公立の高等女学校(中等教育機関)が設置されるようになると私立の女学校に試練の
時期が・・・・

高等女学校規定や高等女学校令が出されると国家主義教育の徹底が図られるようになったのです

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