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成澤泉とはモデルのWiki成瀬仁蔵・女子教育の父を年表で見る

朝ドラ「あさが来た」(あさがきた)で瀬戸康史が演じるナルさま・成澤泉(なるさわいずみとは・成沢泉)のモデルの成瀬仁蔵とは誰なのかWikipedia(ウィキペディア)で調べて見ました(なりさわいずみ)で調べている方もいるようです、あさ(白岡あさ)と日本初の女子大(日本女子大学)を創立する重要人物です、成澤泉はなんと、加野銀行の女子行員、中川ハトが学んだ大阪の桃沢女学校(ももさわじょがっこう)の元、先生でしたモデルは大阪で最初に創設された梅花女学校です

narusawaizumiorizinarujpg 成澤泉とはモデルのWiki成瀬仁蔵・女子教育の父を年表で見る
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」は明治を生き抜いた女性実業家の実話を題材にしてドラマ化していますが、その広岡浅子が女子教育の場女子大学創立の為に賛同を求められます

そのモデルとなっているのが成瀬仁蔵です
朝ドラ「あさが来た」の中では成澤泉(なるさわいずみ)として登場し俳優の瀬戸康史さんが演じます

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成澤泉(なるさわいずみ)成瀬仁蔵のWikipediaによると
成瀬仁蔵とは1858年(安政5年)山口県、長州藩の下流武士の家に生まれました
広岡浅子より9歳年下です

厳格で教養のあった父から教育を受けるとともに幼い事から藩校で漢字、武芸を学んで育ちました
そのまま育ち一旦は小学校教師の職に就きました
牧師となっていた同郷の先輩に影響を受け山口を離れて大阪でキリスト教に入信していました
Wikiはここまでです

女性教育の先駆者である成瀬仁蔵(なるせ じんぞう)
キリスト教との出会いがきっかけで女子教育の道へ突き進む

山口県の教員養成所を経て小学校教員や校長を務めていた成瀬仁蔵は19歳の時に転機が訪れました

郷里の先輩でアメリカから帰国した澤山保羅(さわやまぼうろ)との出会いをきっかけに大阪に出て洗礼を受けます
澤山保羅(さわやまぼうろ)は後に日本で初めて牧師になる人物です

その後澤山保羅達と梅花女学校(現在の梅花女子大)を創立し専任教員となりました
梅花女子学校で教鞭をとりつつ、この頃から女子教育について考えるようになります
幼い頃に女性の生き方に対して好感をもてなかったとも影響しているようです

女子教育の道を志す動機
女性が家庭の中だけで生きるしかない事に対する疑問が女子教育の道を志す動機になったようです
成瀬仁蔵が教鞭をとっていた梅花女学校は土佐裏町になりますが、この梅花女学校は加島銀行にほど近かったのです

広岡浅子とも顔を合わせていたのかもしれませんね

そののちには成瀬仁蔵は牧師として奈良県や新潟県で伝道に務めていました
新潟県にいた時には新潟女学校を設立し校長になっていました

男子中学校の北越学館でも教育にあたっていました
どちらもキリスト教系列の学校です
北越学館はキリスト教思想家の内村鑑三を教頭として招いていました

なんとまだ若かった内村鑑三は学校をキリスト教の伝道組織から独立させようとして、揉め事を起こしてしまいます

成瀬仁蔵は宣教師としても立場に立ち内村鑑三と対立し、結果は事件は内村鑑三の辞任で決着したのでした

アメリカへ留学して神学や教育学を学ぶ
その後1890年(明治23年)成瀬仁蔵32歳時に今後の活動の指針を求めてアメリカ留学に旅立ちました

アンドバー神学校、クラーク大におよそ3年留学します
この留学では神学や教育学を学びました

そして様々な教育施設を視察したのでした
このアメリカ留学での経験から女子高等教育機関の必要性を痛感しました

明治時代に活躍する人物の中には五代友厚といい留学経験のある人が多いのでした

成瀬仁蔵は3年間学んで帰国した後に大阪に戻りました
梅花女学校の校長に就任しました

梅花女学校で高等教育を行いたいと成瀬仁蔵は考えていたのですが、本来はキリスト教系列の中学校だった為に無理がききませんでした
そこで成瀬仁蔵は新しく大学を作るしかないと決意するのでした

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「女子教育」を書き上げます
梅花女学校の校長になって2年目の夏に盟友である麻生正蔵(あそうしょうぞう)と協力して書き上げたのが「女子教育」という本でした
自分の思いを記した「女性教育」を出版して女子高等教育機関の設立に向けて動き出したのでした

麻生正蔵はこの後には日本女子大学の校長を務めています
広岡浅子さんとも縁の深い人物です

成瀬仁蔵は様々な政界人や教育家の元を訪ねて、女子高等教育の重要性を説いて資金援助を求めたのでした
そんな成瀬仁蔵を人々は「山師」と呼んだと言います

それでも成瀬仁蔵はそんな声はどこ吹く風でした日本の女子教育のために工面して欲しいと莫大な金額をさらりと提示して言ってのけるのでした
あまりに臆せずにいうものなので多くの聞いた人達は唖然としたそうです

あのあさが泣いているなんて
成瀬仁蔵著「女子教育論」に泣いた!何が書いてあるの?


浅子が感動したのはココなのです
「女子教育」において成瀬仁蔵は女子高等教育の方針を3つ掲げていました

一、人として教育すること
ニ、婦人として教育すること
三、国民として教育すること

この順番にも注目してください

女性も男性もみんな人間であって、人として自立すべきだと成瀬仁蔵は訴えています
性別も社会的地位も、人の真価には関わりがありません
キリスト教の影響はもちろん有ると思いますが男尊女卑や身分制などが法律で定められている時代にしてはかなり進んだ考え方でした

人間をいち個人として尊重した上で、女性としての社会のまた国家の役に立つように実践的な教育を授けられるべきだと考えていたのでした

成瀬仁蔵の主張の中には明治の知識人としての前向きな考えが表現されています

明治時代の人がちゃんと「老後のための教育」も考えていたなんて
成瀬仁蔵は「老後のための教育」の必要生も論じていたのでした
学んだことを活かして活躍する老いてもなお輝く人生を送るための教育です
この考えは現代の日本にそのまま通用するのではないかと思うくらいです

浅子と似ていて目標に向かって実直に骨惜しみせずに行動する人でした
女子大学設立のために、様々な伝手(つて)を頼って実業家に会いますが事業への賛同と資金提供を求めたのでした
成澤泉役モデルはなんと日本女子大創設者


そしてとうとう浅子に出会います
なんと成澤泉ことナルさまに1億円の寄付したあさ


ここから妙な二人三脚の日々が始まるのでした
広岡浅子とある面では共通点というかどこか変わり者、似たものどうし

世間にどうみられようと自分の理想を一途に追い求める姿に広岡浅子を筆頭に協力者が徐々に集まります
1901年(明治34年)日本女子大学校の設立が叶います

↓★3月4日まで開催です
女子大学校創立の恩人【広岡浅子展】入館無料の開催中


その後成瀬仁蔵は晩年には自分の教育理念を集約した三綱領「信念徹底」「自発創生」「共同奉仕」の言葉を遺しました

それは成瀬仁蔵の生き方そのものでした

ナルさまこと成瀬仁蔵年表
安政5年:山口県に生まれる
明治8年:山口県教員養成所に入学しその後山口県内で教鞭を取る
明治10年:大阪の浪速協会で受洗、その後牧師になる
明治11年:大阪・梅花女学校の主任牧師になる
明治14年:処女作「婦女子の職務」を発刊しました 
     神の前では人は平等であり、キリスト教の教えに基づき女性の役割を説きました
明治20年:新潟女学校を開校し、校長に就任しました
明治23年:アメリカへ留学する、同時に女子の高等教育の現場も視察して日本の女性達にも教育が必要だと痛感します
     帰国後、梅花女学校校長を務める
明治:29年:「女性教育」を出版
      奈良の豪農・土倉庄三郎の紹介で広岡浅子に出会う
明治34年:4月、広岡浅子、盟友・麻生正蔵らと奔走して日本女子大学校創立する
大正8年:1月、死期を悟る
    講堂に大学関係者を集める「告別講演」を行う、3月死去

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