阪神紡績のモデルは広岡信五郎が初代社長を務めた尼崎紡績の歴史
朝ドラ「あさが来た」東京オリンピックでも活躍した選手が出たあの会社(ユニチカ)だったとは・・・新次郎が初代社長を務めた阪神紡績の現在まで
阪神紡績のモデルになった会社の歴史は?
社名の由来は?
なんと東京オリンピックでも大活躍した選手がたくさんでています
阪神紡績のモデルは兵庫県にある尼崎紡績という会社です
1900年(明治33年)尼崎紡績の本社が建てられました
赤レンガ造りの建物す
現在はユニチカ尼崎記念館として残っています
史実でも広岡信五郎が尼崎紡績(現在ではユニチカ)創業の時には役員の互選によって社長になっています
朝ドラ「あさが来た」でも娘の千代ちゃんに「お父ちゃんは何で?働かへんの?なんで?」と質問攻めにあって店の玄関前に倒れ込んでいましたね
それくらい働いた姿を見せない道楽にうつつを抜かしたボンボンにみえましたがそんな人が社長に選ばれるでしょうか?
↓いとも簡単に社長になったと思たら自分の生きる道の為に簡単に辞めた新次郎
あさが来た阪神紡績を辞めたら銀行の相談役これがわしの生きる道だす!
朝ドラ「あさが来た」の中の新次郎は信用があった?
ドラマの中でもあさが感心していましたが旦那さまの広岡信五郎は史実でも大阪財界で信用や信頼があった人物だったのではないでしょうか
あさが晴花亭でタメ息をついたように旦那さまには私にはない信用があったようですね
この尼崎紡績は、木原忠兵衛や広岡信五郎などの大阪財界人や尼崎の商人である、本咲利一郎や大塚茂十郎や梶源左衛門や中塚弥平の他に尼崎藩の士族も加わり1889年(明治22年)創立されました
この時の資本金は50万円有限責任会社で、広岡信五郎が社長に就任しました
その後1893年(明治26年)に商法一部施行により株式会社になりました
会社の主力は技術を要する細番手と中番手の糸生産を中心にしており、尼崎紡績は発展していきました
その後は機械の数も増えて行き、日露戦争の後には更に飛躍的に発展するのでした
広岡信五郎が亡くなった2年後には1906年(明治39年)には紡績工場として東洋紡績を設立して1908年(明治41年)に東洋紡績を吸収合併するのでした
なんと第1次世界大戦の反動恐慌だったのにもかかわらず1916年(大正7年)には摂津紡績を合併して社名を【大日本紡績】に変更しました
日本最大級の紡績会社に変貌しました
ところが1945年(昭和20年)終戦直後の6月には空襲の為に尼崎工場は多くの工場施設を焼失してしまいました
おかげで機械設備の役9割が喪失してしまうという壊滅的なダメージを受けました
第二次政界対戦が終わった19年の後には1964年(昭和39年)に社名をニチボーと変更し1969年(昭和44年)には日本レイヨンと合併します
この日本レイヨンという会社は元々1926年(大正15年)大日本紡績から分離してできたものなので43年後に再び合併した事になりました
ユニチカの社名の由来は?
そしてこの合併の時に今までの社歴に関わりの無いような新しい社名に変更する事となり、旧社名と無関係であって、そのまま商標に成ることを条件付きで全社員より社名を募集しました
応募総数25000でしたが、残念ながら既存の名前が多くてこの中から特に商標になるよう短い名前から選ぶ事はできなかったのです
そこで考えられた名称は「結合した」を意味する「ユナイテッド」と両者に共通する「ニチ」と会社を意味する「カンパニー」を組み合わせ【ユニチカ】という社名が誕生したのでした
現在もユニチカ株式会社は兵庫県尼崎市に本店を置いて、本社は大阪と東京の両方にあります
↓今ではどのように様変わりしたのでしょうか?
阪神紡績の初代社長になった新次郎・会社モデルの現在はこちらへどうぞ
このユニチカ株式会社はご存知の方も多いと思いますがスポーツ活動が盛んな会社でして先の東京オリンピックが開催された頃には貝塚工場の女子パレーボール部がとても有名でした
それだけでなく、1975年(昭和50年)世界選手権で優勝した女子バスケットボールはその半数以上をユニチカの選手が占めていたのでした
1961年(昭和36年)にヨーロッパ遠征をした時に24戦全勝して「東洋の魔女」と呼ばれたものでした
今では活動を停止していますが東京オリンピックの活躍と栄光は心に長く残り、日本のバレーにおいて語り継がれています