あさが来た加島銀行の史実と現在・広岡浅子のエピソードとは?
朝ドラの加野屋や加野銀行のモデルは大阪で老舗両替商を営んでいた広岡家の加島銀行の設立と廃業までの歴史を史実に基づき調べてみました
広岡浅子が40歳の時加島銀行銀行が開業します
1888年(明治21年)広岡家は加島屋を母体にして加島銀行銀行を設立します
加島屋は明治時代の両替商とも言える銀行業を新しくスタートさせます
「あさが来た」でもなかなか雁助や榮三郎の反対があり実現しませんでしたが史実でもやはり1873年(明治6年)に大阪に第三国立銀行設立の計画がありましたが株主間の対立があって計画が頓挫していました
鴻池屋が先に銀行を設立していたので加島屋にとって悲願の銀行設立でした
この時の加島銀行銀行の初代頭取は広岡家の本家を継いでいた久右衛門正秋(広岡信五郎の弟です)
相談役には広岡信五郎が名を連ねる事に成ります
加島銀行の本店は大阪です、他には東京を始め各地に支店を開業しました
京都、岡山、兵庫、広島、東京など全国20店舗を展開します
大阪では5本の指に入る大手銀行に成長しました
この銀行事業を指揮していたのはもちん浅子です
何故かこの経営陣の中には広岡浅子の名前は見当たりません
あさの連続テレビ小説「あさが来た」では銀行を創立したいとずっと言い続けていたのはあさなのにです
それでも広岡浅子が加島銀行の頭取だと勘違いする人も出てくるほどだったそうです
それほど経営そのものは浅子の手中にあったのです
浅子の商才は銀行経営にもいかんなく発揮されるのです
銀行はそう簡単に創立できたのでしょうか?
銀行を立ち上げ始めた頃には経営も手探りでした
そして融資先の事情もさまざまです
明治維新で両替商の末期の辛酸をなめている浅子は銀行の経営にも目を光らせました
浅子は加島銀行ほかの業務を主導していますし、人事権を握っていました、従業員の教育に対しても重視していて、人材を見極める目も優れていました
浅子のエピソードの一つ
京都東本願寺の高僧がお寺への融資を受けようと加島銀行に出向きました
僧侶が頭取に会いたいと申し出た所挨拶に顔を出した浅子が応対をしました
浅子はこの僧侶の融資の話を聞き入れるどころか寺院の経営の乱れを厳しく指摘したそうです
そのため僧侶たちは慌てふためいて引き下がっていったという言い伝えがあります
その一方で広岡浅子は加島屋一家の子弟から銀行の番頭小僧までを分け隔てなく教育して、支店を見回っては、銀行行員に講話をすることがあったそうです
これだけ上り詰めてしまうと、なかなか人を分け隔て無く平等に見るという事ができなくなりそうですが浅子には人を見る目もあったようです
やがて加島銀行銀行は、関西の有力銀行として発展していきます
本店の大阪を中心にして全国に支店を展開していきます
広岡家の事業の中では中心的な存在になっていきました
広岡浅子の経営の才覚と補佐をする人材に恵まれて加島銀行をはじめとする広岡家の商売は順調に発展していきます
加島銀行の貯金額は
1895年(明治28年)67万円
1899年(明治32年)278万円
1904年(明治37年)555万円
右肩上がりに増え続けました
1914年に始まった第一次世界対戦のおかげで日本経済は好景気をもたらされましたが一転して5年も経つと今度は長い不況が訪れました
1923年(大正12年)の関東大震災がもたらした不況や1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌、1930年(昭和5年)昭和恐慌と日本経済が大ピンチに陥ります
日本が経験した中でもっとも深刻な不況がやって来ます
多額の金流出や急激なデフレに株式市場の暴落とそれぞれが連鎖的に進んで行ったおかげで各産業は壊滅的に打撃を受けたのでした
加島銀行も例にもれず瀕死の状態になりました
この時代銀行は現在とは違い簡単に潰れる時代でした
金融不安が囁かれると一般庶民は預金を引き出して安全な銀行へシフトして預け直していました
一方三井銀行、三菱銀行、住友銀行などの大手銀行に預金が集中していきました
日本銀行の支援を得て昭和金融恐慌を乗り切ろうとしたのですが、業績は悪化の一途でした
加島銀行は大幅な預金減少に陥ります、業績は悪化していきました
1929年(昭和4年)鴻池銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)野村銀行(現在のりそな銀行)山口銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の3つの銀行に分割して譲渡されました
その後加島銀行は整理の為に暫く営業を続けましたが、昭和恐慌には耐え切れず1937年(昭和12年)に廃業しました
この加島銀行の廃業は広岡家の中心的な事業でしたので、財閥広岡家の没落を意味していたのでした