五代友厚とは・あさに恋し英語で口説いてたけど結婚したの?死因と子孫は
みだれ前髪ディーン・フジオカが演じる薩摩生まれのイケメン才助(五代さま)の歴史・広岡浅子との接点はあるのか?
五代友厚は1835年(天保6年)現在の鹿児島県鹿児島市長田町に産まれました
後に五代さまと新次郎を比べた時に背も高いし、家柄も良いしと言うと、新次郎が五代様は家柄がうち(加野屋より)より良いと中番頭の亀助にくどいていましたが
五代家の家禄は2百万石から4百石で篤姫や今泉島津家や帯刀の小松家のような門閥ほどではありませんでしたが、松方家や三島家よりは高い家格だったのです
帯刀の小松家とは小松帯刀
松方家とは松方正義
三島家とは三島通庸(みちつね)です
同じく薩摩藩出身の人々の活躍は目を見張るものがあります
篤姫・・・13第将軍家定の御台所です
小松帯刀・・大政奉還の時に薩摩藩代表を務めました
松方正義・・明治政府で大蔵卿を務め2回首相になっています
三島通庸・・山形・福島県令・警視総監を歴任
薩摩藩第11第藩主・島津成彬は幼い頃から洋学に興味を持っておりました
藩主に成る前から西欧列強のアジア進出を危惧していました
以前から先見的なものの味方をしたいたので日本の近代化を先駆ける事業を展開していました
ところが鹿児島城下で出兵のたまの練兵を観覧している時に病に倒れ亡くなってしまいました
過労による食中毒(腸炎ビブリオ)とも言われています
島津成彬の意思を実現したのが五代友厚でした
五代友厚の才能を好んでいた島津成彬の命名で五代才助と名乗っていましたが1870年(明治3年)に五代友厚と改めました
五代友厚は13歳の時に儒学者だった父が世界地図模写の藩命を受けた時に父に代わり模写図を2枚作ったと言われています
五代友厚の父は三国名勝図会という膨大な地理書を編集した人物です
五代友厚は1885年9月25日亡くなります
死因は糖尿病です
酒豪だったとの一面もあり、NHKあさが来たでは朋友の大久保利通が暗殺された時には前髪を乱れるほウイスキーを飲んでいました
悲しみのあまりあさに抱きついてしまい号泣していましたね
シャンパンが好きでワイン、ビール、ブランデーと英国留学時代に洋酒を飲むようになったようです
おいの身体には筋金が入っちょるというのが口癖でした
頑丈さには自身を持っていたようです、死ぬ間際まで精力的に仕事をしていたと言われます
酒を愛した五代友厚はこの時代には食べたくても食べ物がなかった時代でしたので糖尿病は珍しい病気だったようです
その五代友厚の子孫に「最後の山師」と呼ばれた五代友厚の次女・五代藍子がいます
五代友厚が製藍業を始めようとしていた時に産まれました
正妻の子ではなく広岡浅子のようにめかけの子でした
五代藍子が10歳の時に友厚は亡くなりますが、亡くなった父と関係が深い鉱山業を仕事にしようと洋書を片手に猛勉強をします
大正8年に五代友厚が亡くなった後に人手に渡っていた伊勢・治田鉱山を買い戻し90歳で亡くなるまで鉱山を独身のまま経営し続けました
五代友厚の正妻には子供はいませんでしたが複数の側室がいました
ひ孫の一人に五代富文(とみふみ)さん83歳がいます
五代友厚が私利私欲をステて日本の近代資本主義の発展に力を注いだように、なんとひ孫の五代富文さんは「純国産ロケット」の開発に関わりました
「純国産ロケット」と聞いてもピンと来ませんでしたがTBS系のドラマ「下町ロケット」で帝国重工が目指したのが奇遇な事に「純国産ロケット」でした
ひ孫の五代富文さんは東大工学部航空学科を卒業したのち富士精密興行でロケット設計、空港宇宙技術研究所でロケット研究・開発に従事しているのです
大勢の仲間とともに各種プロジェクトを実行する、「下町ロケット」の苦労を見て涙を流しただけにその苦労がなんとなく想像できます
五代友厚の熱い想いが伝わってくるようです
生前自分が死んだ時には故郷の薩摩ではなくて、大阪に埋葬して欲しいと遺言していたそうです
現在五代友厚さんは多くの無縁仏も眠る墓地に眠っています
五代さまらしい人生だと感動しました
↓とうとう五代友厚死す1月22日放送内容をピックアップしました
「最期までこの国の未来の為に命を賭けたい」五代様ありがとうさようなら
↓1月22日「あさが来た」放送後になんとあさイチにディーン・フジオカさんが生出演して有働アナの質問に答えました
あさイチ有働アナが涙でもうちょっと2月までいて欲しかった五代さま!
↓なんと1月23日放送では五代様の知られざる世界が暴露されて
死んだら借金と弁明書だらけだった五代さま意外な一面を美和が語る
墓と向き合うようにそびえるのは日本一の高層ビルあべのハルカス
大阪の発展に尽くした五代様まさか自分のお墓から日本一の高層ビルを眺められるようになるとは思わなかったでしょう