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あさが来た 福沢諭吉の名言と著書「学問のすすめ」と大学について

NHK朝ドラ74回壱万円札(1万円札)でお馴染み福澤諭吉役の武田鉄矢さんが登場します

福澤諭吉は1835年1月10日(天保5年12月12日)生まれ
蘭学者で啓蒙思想家で著述家で教育者です

現在の慶應義塾大学の創立者です
さらに専修学校(現在の専修大学)や商法講習所(現在の一橋大学)伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)土筆ヶ岡養生園(現在の北里研究所)など沢山の大学の創設に尽力しています

新聞『時事新報』創刊者でもあります
他に東京学士会院(現在の日本学士院)初代の会長も務めています
多大な業績が認められ明治六大教育者として名をはせています

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1984年(昭和59年)より今までの聖徳太子に代わり、日本銀行券一万円紙幣の片面に福沢諭吉の肖像画が採用されています

幼い時は叔父中村術平の養子となっており中村姓を名乗りましたが
後に父親が亡くなり中村栗園に見送られ大坂から帰藩しました

幼い頃は悪戯をしたり、お札を踏んだり悪童まがいの溌剌とした幼少期をすごしました

読書が嫌いでしたが15歳頃になり隣近所で自分だけ勉強をしてないというのは体裁が悪いと悟り勉強を始めました

ところが勉強を始めるとすぐさま実力を発揮し、様々な漢書を読みあさります

学問の傍らに立身新流の居合術を習得していました

1854年(安政元年)19歳になった福沢諭吉は長崎へ遊学します

そこで蘭学を学びました
元々は黒船来航の為砲術の勉強の必然性が高まりオランダ流の砲術を学ぶ為にはオランダ語を原書で読む必要に迫られるようになり、兄から原書を読んでみないか?と誘われたのがきっかけだったそうです

勉強の甲斐あり福沢諭吉は鉄砲の設計図を引く事ができるようになりました
諭吉がオランダ語を学んだ山本家には客として、薩摩藩の松崎鼎甫が出入りしていました
薩摩藩の松崎鼎甫にはアルファベットを教わりました

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福沢諭吉は長崎に滞在した時には多くの知識を蓄積出来ました

長崎で遊学していた福沢諭吉の元に1855年(安政2年)中津へ戻るよう知らせが届きましたが中津へ戻る気持の無い福沢諭吉は大坂を経由して江戸へ出ようと決意します

大坂い着いて中津藩屋敷に務めている兄を尋ねると江戸へ行かないよう引き止められ、大坂で蘭学を学ぶように説得されました

ここではその当時「過所町の先生」と呼ばれていた蘭学者・緒方洪庵の適塾(適々斎塾)で勉学を学ぶ事になりました

ここで福沢諭吉は大病を患います
なんと腸チフスに掛かってしまったのです
この時は洪庵の朋友である内藤数馬から処置を施されました
後に体力が回復したので中津へ一時的に帰国しました

1856年(安政3年)には再度大坂にやってきて勉学に努めました
ところが兄が亡くなり福澤家の家督を継ぐ事になってしまいました
大坂での遊学が諦められない諭吉は父親の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済してまで再び大坂の適塾で学びました

この時は母親以外の親戚一同から反対されたそうです

1858年勝海舟らが登用された事により福澤諭吉も中津藩の中から江戸出府を命じられました
江戸の中津藩邸で開かれた蘭学塾の講師に鳴るために江戸に出る事になりました

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