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あさが来た 正吉が病気に・史実の第八代広岡久右衛門正饒の人生は?

広岡信五郎がのほほんと三味線や謡のお稽古三昧の生活ができたのは広岡信五郎の父親の正饒が有能だったからといえます

正饒は大阪商人の顔役だったのです
鴻池屋善右衛門とともに幕府や雄藩との難しい交渉に当っていました
幕末の難局を乗り切ろうと努力していました

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正饒は度量のある人で仲間たちからは熱く信頼されていたそうです

正饒の功労の一つに長年のライバルであった加島屋作兵衛(長田家)と和解した事です

同じ名前で加島屋、大名貸しを家業としていた加島屋久右衛門と加島屋作兵衛はライバル関係にありました

両家の手代は我々こそ加島屋本家であると張り合っていたそうです

そのため良好な関係でなかったようです

元々は三井八郎治郎と許婚の関係にあったにもかかわらず加島屋久右衛門と加島屋作兵衛の関係改善のために加島屋作兵衛(長田家)から娘を嫁として広岡信五郎の弟である正秋の妻としました

長い間続きました両家のいさかいを終わらせました

大阪中の商人がピンチを迎えていた1868年(慶応4年)加島屋に不幸が降りかかっていました

当主であった久右衛門正饒が病に倒れてしまったのです

その為に御用金の調達や明治天皇東幸の御用掛などの仕事は三男である正秋が代理で務めていました

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さて、どうして三男が久右衛門正饒の代理を務めたのかといいますと長男は早くに亡くなっており次男の広岡信五郎は養子に出ていたためです

明治初期において大阪商人達の行動について、京都や東京の商人に比べて消極的だった為に新しい時代に対応できなかったと批判がありました

これはどうやら、まとめ役であった第八代久右衛門正饒を欠いていた事も影響していたと思われます

そんな中でこの年に正饒はかねてから関係が深かった長州藩を助ける為に、他の債権者と交渉をして利子軽減などの再建策をまとめていました

なんとその功労が認められて、藩主の毛利敬親(もうりたかちか)から黄金の茶碗を拝領しました

残念ですがこれを最後の仕事として、1869年(明治2年)に正饒は没しました
その後、広岡信五郎の弟の正秋が後を次いで九代目久右衛門となりました

その時の正秋は数え年で26歳でした
この若い当主を支えていたのが広岡信五郎と広岡浅子でした

正秋が若く、経験不足なのは事実ですが、浅子はもっと若くさらに女性なのです

いくら毎晩、算術の勉強をしていたとしても、店を任せたのは勇気がいる決断であったといえるでしょう

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