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広岡浅子の家系図で驚く事実が・姉や子供まるわかり九転十起の一生・前編

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」を見るまで。幕末にこんなにも豪快で素敵な女性がいたなんて、知らなかった加野屋モデル加島屋に嫁いだ女性を調べました

ある面では男以上に頼もしく、それなのにきめ細やかな心でもてなしてくれる

三井家のルーツは慶長年間、当主の高俊がそれまでの武士を廃業して松坂に越後屋を創業する事から始まります

越後屋は酒屋と質屋を営みます
高俊の後は息子の俊次(としつぐ)が家業を継ぎます
ところが実際に商売はやはり豪商の出身である母親殊法が取り仕切ります

浅子に流れる女性実業家の血は実家三井家の初代高俊の妻・殊法さまの血が濃く受けつかがれているという
二代目俊次の時お店で反物などを実際に売っていたのは初代高俊の妻・殊法だったのです

この高俊の妻・殊法に関しては「殊法大姉」という戒名しか残っておらず人柄をしのぶ事ができません
しかし、この時代の女性で名前が残っているのは希な事ですのでやはり、越後屋発展の基礎を築いたのには間違いありません

この殊法さんの商売人の血が浅子に受け継がれ商売で大成功を収めたのではないでしょうか
寛永年間には江戸本町四丁目に小間物店「越後屋」を開きます

のちには呉服屋と成りますが、この家は四角い釘抜き紋を家紋にしていたために釘抜三井家(くぎぬきみついけ)と呼ばれました

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三井浅子さんは幼い頃から女性のたしなみであるお箏のや裁縫の稽古には目もくれず、学問にたいそう興味を持っていたそうです
論語や孟子について勉強をしたがったそうです

男勝りな正確だったよう男の子相手に相撲をとったりしていました
いつまでも奉公人など相手に相撲をとておてんばだったのでお母様からは少しは気をつけるようにと叱責をうけていたそうです

相撲を取るとその頃は日本髪を結っていたのですがこの髪型が崩れてある日いつものように母親に叱られました
ところがこのお小言に反発してなんと思わぬ事をしでかしたそうです

いつも早起きの浅子が起きてこないので皆が心配していたところ、なんとふさふさした前髪の髷(まげ)を根本から切ってしまったのでした

これでお母様の小言のネタもなくなったでしょう・・・
こんな行動にでたのには、女には教育は不要だと読書を禁じられてしまった事への反発もあるのでしょう

後に浅子は、私は女なるがゆえに学問は不要と言われるのをつくづく残念に思いました

17歳になった浅子は1865年(慶応元年)大阪の豪商加島屋の次男、広岡信五郎の元へ嫁ぎましたその時周囲は果たして添い遂げる事ができるのだろうか?と浅子のじゃじゃ馬ぶりを知っているだけに心配したそうです

ところが、まさかこのじゃじゃ馬が嫁ぎ先の加島屋を救う事になるとは
信五郎が少しも家業の手伝いをせずに、全て人任せ、自分はというと、謡曲、茶の湯の遊興にふけっているという有様でした

このままでいいのか?考えた浅子は寝る間も惜しんで、簿記法、算術、その他商業上にかんする書籍を眠りの時間をさいてまで勉強に励みました

浅子が心配した通り、嫁いでから明治維新を迎えるまでの2年間、幕府は衰退しそれまでの商売がなりたたなくなっていました

大名に貸していたお金900万両(現在のお金で490億円)は紙切れ同然になりました

政府から用立てるように言われた軍資金は調達出来ず、心細い運営資金は政府により銀目を廃止された時、新紙幣へ両替を求めて来た商人達に引き換えた為資金は底を着き、莫大な借金を抱える事になりました

貸したお金を少しでも取り立てる為に大阪の諸藩に出向いて物事の理非や武士道まで持ちだして少しでもと返済を迫りました、その一方で独学で経理を勉強してお金集めや借金の言い訳に駆けずり回りました

ドラマでは奈良県までお金を借りに行きましたが、実は東京の借入先へ借金の返済の引き伸ばしに出向いたのが真相なのです

加島屋の借入は長州の毛利家、平戸の松浦家、さぬきの高松家、伊予の宇和島藩そして、薩摩藩など沢山ありますが、浅子はしばしば訪れては事情を訴えつづけたということです

ドラマでも加子部屋で一夜を明かして宇奈月藩から借金の一部を取り返して来ますがジッ財には宇和島藩邸だったようです

姉の天王寺屋を始め両替商は軒並み潰れて行く中で浅子の必死の働きで加島屋の傾いた暖簾は次第に持ち直していくのです

浅子のおかげで持ちこたえた加島屋は1869年(明治2年)民部省(後に大蔵省と合併)から為替会社の頭取、通商会社惣頭取に任命されます

1871年(明治4年)廃藩置県が発令され各藩の今までの負債は帳消しになってしまいました
新政府はその負債を肩代りして、藩札を地価相場で交換するという援助作が発表になりましたがこの時、発酵された旧貨と新貨を交換する貯めに兌換の業務を独占したのは浅子の実家の三井家でした

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幕末から新政府に肩入れをしていた三井家は金融業で先頭を切ります
1873年(明治6年)第一国立銀行の設立に参画します

第一国立銀行は大蔵大丞 ( おおくらだいじょう ・事実上大蔵省のトップの事)渋沢栄一が立案しました、日本で初めての銀行です

名前は国立ですが実際には三井家と小野家が中心となった完全な民間経営です
一般からも資金調達を認め、日本初の株式会社ともいわれています

ドラマではすぐに炭坑を山ごと買い取り炭鉱の仕事をするような印象ですが実際には

この間に加島屋は倒産を免れて結婚十年目に長女の亀子が誕生します

その後、新しい収入の柱をと考え新事業の展開に考えたのが炭鉱開発でした
石炭の販売(輸出)を始めその後筑前国(今の福岡県西部)に80万坪の坑区を買い占めます

この時に三井家からの持参金や嫁入り道具まで処分して資金を調達したと言われています

素人の領域であり当たれば一攫千金かも知れませんが、外れると破産の憂き目にあう可能性があります
夫の信五郎を始め従業員も親戚も反対する中、石橋をたたいてから渡るより、まず渡る正確の浅子はこれたの忠告には全く耳を傾けなかったそうです

一度決めた事はどんな障害も乗り越えて見せるという固い決意をしました

その後石炭の販売代理権を取得したのですが、莫大な輸送経費がかかる事などから事業が難航します、そこで炭坑を買収して採掘事業をすることにし、現在の福岡県飯塚市にある潤野炭鉱を買収しました

ここでは断層に阻まれておもうように採掘ができず中断されます
ここで共同経営者も手を引き世間からは冷たく女の浅知恵と非難されます

後編へ続く・・

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