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潤野炭鉱の場所発見 広岡浅子の手腕を物語る伝説の度胸とエピソードとは

石炭は日本の近代化を支えた産業のひとつです、加島屋(ドラマでは加野屋)福岡県飯塚市炭鉱を買い取った後の行動に注目!ピストル伝説の真相は?

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黒いダイヤモンドと呼ばれた石炭は近代日本の経済にとって大金を産む非常に重要な資源だったのです
江戸の末期から九州の筑豊(福岡県の中央部から北部にかけての地方)や唐津地方で採掘された先たんが薪の代わりに個人番で消費されていました

財政が逼迫していた諸藩が陣頭指揮をとっては炭鉱開発に乗り出していました
おかげで日本各地に炭鉱が産声を上げました

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明治期の前後から栄えた主要な炭鉱の多くは北海道、山口県、九州地方に集中していました
特に北九州地方の炭鉱の数は群を抜いていました

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福岡県では
志免炭鉱・潤野炭鉱・方城炭鉱・三井山野炭鉱・三井三池炭鉱
熊本県では天草炭田
長崎では高島炭鉱・端島炭鉱
などがありました

明治時代になると九州北部を中心に次々に炭鉱が誕生します
炭鉱には職を求めて各地から人々が集まっていました

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朝から晩まで前身真っ黒になちながら採掘し続けました
何故そんなに仕事をするかというとなんと給料がサラリーマンの2倍とも言われる位の高給だったのです

炭鉱夫の雇入れが多くなると今度は炭鉱のある街には飲食店や学校や病院や映画館とどんどん街が栄ました

景気がうなぎ登りになり住民に笑顔を家庭の平安おももたらしてくれました

しかしその光の裏側には陰が潜んでいます
多くの命の犠牲もあったのです

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昔の映画や本を読んでいると主人公の父親が炭鉱の崩落事故で無くなったりと、実際の炭鉱現場は死亡事故が多発するくらい危ない仕事だったようです

現在の福岡県飯塚市の嘉穂高校や若菜小学校周辺が潤野炭鉱の跡地と成っています
嘉穂高校正門前には死者64人を出した明治36年のガス爆発事故の慰霊碑が今のなお建っています

当時の石炭事業には一攫千金の夢にかけた人々が掘った6千もの炭鉱が乱立していました
潤野炭鉱を買い取り深鉱を始めたものの、なかなか計画通りには進まなかったようです
こんな混沌とした状況の中で潤野炭鉱は断層に阻まれて明治27年(1894年)には炭鉱は一時的に休業をしましたが

浅子はどうしても諦めませんでした
浅子46歳でした

実家の三井家の番頭からは「三井の娘ともあろうものが、そんな事をされては困る」と注意を受けたそうです

親戚縁者からも炭坑行きを猛反対されました
それを押し切って直接潤野炭坑へ行ったのでした

ドラマ「あさが来た」の中でも新次郎は最初っから猛反対をしていましたね

加野屋の大旦那の正吉も
九州が格別遠いいうだけやあれへん
嫁が長いこと家離れるいうのは本来あっては成らん事だすそれがどないな事かよう考えて、それでも行くいうねやったら、私はもうあんたを止めません

家族の世話も亭主の世話もしない嫁
跡継ぎも産み育てる務めも放棄していたようです

炭鉱経営なんて博打みたいなものだ、傷が浅いうちにやめたほうが良いと忠告する物もいたようでしたが、浅子は頑なでした

周りの炭鉱が沢山でているのに、ここだけでない道理はないと言ったそうです
明治28年(1895年)周囲の反対を押し切って再開発を開始しました

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この時には浅子は自ら九州に赴いて時には炭鉱内で寝泊まりしながら炭鉱夫を叱咤激励するひびだったそうです

ただこの炭鉱のような過酷な動労環境は大変なものがあり、とても経営者自らが乗り込んでいくような場所ではなかったようです

この時代に女性が炭鉱経営をした事例もなく、また女性自ら炭鉱に乗り込みのも初めてだったようです

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この当時の広岡浅子のエピソードの一つに
洋装の浅子がピストルを懐に忍ばせて炭鉱入をしたとあります

広岡浅子は気の荒い鉱夫と寝泊まりをする為に護衛にピストルを携帯していたという
この護身用のピストルを懐に入れて地下深く地底みもぐり鉱夫らと寝食を共にしました

ここで働く人達は裸一貫で鉱山で汗水を流す屈強な荒くれ者達です
この者達には刀で脅された事もあったそうです

それでも浅子はひむる事なくこの鉱山に入っていったので

実業家に身を投じてから自身の言葉で振り返っています

「一族のため重大なる家政の責任を一身に担い、奮然起こって事業界に身を投じました

以来東奔西走、真に席の暖まる暇なくある時には鉱山経営に多くの荒くれた鉱夫共を相手に生活した事もあれば・・・冒険的事業をあえてなしたので狂気扱いせられた事も度々でありました・・・」と語っています

女だてらという好奇の目やその当時では考えられないような事を成し得たゆえに色々と苦労があった事がうかがえます

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NHK朝ドラ「あさが来た」11月7日放送36回では九州へ亀助を伴って出発したあさに五代友厚が袱紗(ふくさ)に包んだピストルをお守り代わりにもっていくように差し出します

お守りです
もっていくとええ

ピストルを見たあさは
こんなん頂けまへん

あんたは今からそれだけ危険な場所に行くということや
あんと私を最初につないでくれたのもこのピストル

しっかり手渡して
あささんやったらきっとやれる

あさは受け取り
おおきに
五代様
お礼を述べる

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五代さまが浅子にピストルを餞別に持ってきたのはまさに命がけの仕事だという事も意味しているといえるでしょう

一説によると浅子は潤野炭鉱には「失敗したら死ぬ」覚悟でピストルを忍ばせていったという広岡家の言い伝えも残っています

この当時商人がピストルを手に入れる事ができたのでしょうか?
五代友厚とピストルとの関係ですが高杉晋作と一緒に藩の命令で上海へ偵察に行った事あり意気投合したそうです

この時にピストル手に入れた高杉晋作の真似をしている可能性はあります
高杉晋作はのこピストルを坂本龍馬に贈り龍馬の命を救う事になったそうです

五代友厚がピストルを持っているのは不思議ではありませんし、手に入れた中の一丁が浅子の手に渡ったと考えられます

この時代に女性が表舞台には出てくる事が珍しい時代だったでのでしょう
名家出身の令夫人が洋装で自ら鉱山に乗り込んで陣頭指揮をとるなんてショッキングなニュースとして巷を賑わせたそうです

浅子の行動は話題性を作りたかった訳でははく、「友として一緒に働いて彼らが何を考えているのか何を求めているのかをまず知る必要性がある」まさに実業家としてのしっかりとした考えがあったのです

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この後、広岡浅子の努力は実ります
努力の甲斐あって潤野炭鉱の産出量は2年後から急増して、優良炭鉱に生まれ変わったのでした

広岡浅子が経営に当たった潤野炭鉱は再開発が成功して明治30年には鉱夫200人が働く規模へと成長しました

2年後には官営製鉄所(その後の八幡製鉄所)へ売却されました
昭和8年頃には鋭角を描くボタ山の写真が残っています
この写真からも石炭の産出の盛んな様子が伝わって来ます

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1950年代頃よりエネルギー革命が起こりなんとエネルギー源は石油にとって変わられました
この頃より炭鉱は急速に衰退していきます

最大手の三井三池炭鉱が平成9年(1997年)に閉山して筑豊の炭鉱は姿を消す事になりました
現在では世界遺産「明治日本の産業革命遺産」に登録されて再び注目を浴びています

潤野炭鉱はその後には官営製鉄所となり返還を続け昭和38年(1963年)閉山になるまで石炭を産出し続けました

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