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広岡浅子 あさの実家のモデル・三井家はなんと大財閥ルーツは?

NHK連続テレビ小説「あさが来た」(朝ドラ)ヒロインの実家(今井家)のモデルになっている浅子さんの実家三井家は江戸時代の大商人・三井高利にさかのぼる名家なのです

三井家は家伝によると菅原道長の六男の五代孫右馬之介信生が近江国に土着して武士になったのが三井家の始まりとされています(ただ資料の裏付けがありません)

現在に続く三越百貨店や三井住友銀行などの礎を築いた家といえるでしょう
三井戸いうとかつての三大財閥の一つです

財閥が解体されて久しい現在でもその名を冠した企業は多い
三井住友銀行、三井物産、三井不動産を中核とする三井グループにはトヨタ自動車や東芝などの企業も含まれています
みなさんご存知の名前がずらずらと並んでいるのではございませんか

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三井が大きく発展して三井財閥へと成長したのは明治時代の事ですが江戸時代においても実はトップクラスの豪商でした

三井家はなんと先祖は菅原道長で、中世には武士をして近江の六角氏(ろっかくし)に仕えていたと言われます

「高」を通字としていましたが高久の五代孫越後守高安の時代に織田信長の上洛により六角氏と共に滅亡してしまい、伊勢国松坂近くにあった松ヶ島に住み着いたとされています

通字(とおりじ)とは日本での家系において代々名前に使われる文字の事です系字とも言います

慶長年間に高安の子供である高俊(たかとし)が武士を廃業しています、松坂に酒屋と質屋を開きました
商人として三井家はスタートしました

高俊の跡は嫡男の俊次が商売を引き継ぎましたが実際の商売は高俊の妻(俊次の母親)の殊宝(しょほう)が取り仕切っていました、この高俊の妻の殊宝が越後屋を発展させて行きます

ここにすでに女性実業家の血筋が三井家のルーツとして芽生えていたのではないでしょうか

後に浅子は殊宝(しょほう)の生まれ変わりと言われます

寛永年間の初めには江戸本町四丁目には小間物屋である「越後屋」を開店させていますが後には呉服屋になりました 

この家は四角い釘抜きモンを家紋にしていた為に「釘抜三井家」と呼ばれていました
高俊の次男の弘重、三男の重俊も江戸や松坂で自分の店を開店させます

元和(げんな)8年1622年高俊の4男としてこの世に生を受けた三井高利
四男だった高利(たかとし)は兄の俊次(としつぐ)のところで働き本町四丁目の店を任されますが母が病に倒れた為に松坂で看病をする為に松坂に戻ります

実は兄達より高利(たかとし)は商売の才能を警戒されていたのです
それで母の看病をさせられていたのでした

実家から独立して江戸に呉服屋越後屋を開業したのが延宝(えんぽう)元年1673年、なんと50歳を越ええています(昔は人生50年と言われる時代です)

高利(たかとし)の兄達の認識が正しかったのでしょう高利は商売を始めるとめきめき頭角を現しました

当時の呉服屋の営業の手法は大名や武家などの屋敷に品物を持って行きその中から選んで注文を取るという商売の仕方が普通でした

三井高利は店頭に商品を並べて現物を誰にでも見られるように、天井から反物を吊り下げて値札を付けていました

店の奥の方には勘定場もありその日の両替の相場も表示されていました

広いお店を利用してあちこちで客と手代が商談を繰り広げる上にお客さまの要求によっては反物が切り売りされていました

お店で誰でもが反物の現物を見られるという今までに無い商売でした
現金会計もして安い価格を設定する事で大成功を収めました

この三井高利の商売手法(方法)は現在ではどのお店でもしている当然の事なのですがこの当時では大変珍しく越後屋の商売はそれまでの販売手法を覆すものでした

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御用聞きの訪問販売だったのにお店に商品(現物)を展示する来店型の商売へ
それまでの盆暮れに買い物の料金をまとめて精算するという、つけ払いから現金販売へ

商品の値段は今までは一つ一つ交渉していましたが、正札値引きなしの販売手法へ(明朗会計で時間も短くてすみますね)

反物をまとめては販売していたのは好きな反物を切り売りへと三井高利は新しい商売方法を考案しましたがこれは江戸の町人に大受けしたのでした

兄の俊次(としつぐ)が亡くなった後には高利は江戸へ進出します
江戸で修行をさせていた高利の息子達に江戸一番の呉服街・江戸本町一丁目に「越後屋三井八郎衛門」の暖簾の元で「三井越後屋呉服店(越後屋)」を開業させます

その後は京都に仕入れ店を開きましたが、この店は高利の長男の高平に任せ、江戸の店は次男の高富に管理させました

高利は松坂にいながら采配を振るい、どの店も大きな商店に成長しました
貞享四年(1687年)には幕府の納戸御用に元禄二年(1689年)には元方御用を務めるまでになりました

更に両替店も江戸・大坂・京都で開いて三井家の事業を拡大していきました
しかし破竹の勢いで快進撃を続けるのですがその一方では同業の呉服屋や両替屋にはうとまれて色々な嫌がらせを受けたそうです

三井高利は晩年には京都に移り住みました
江戸の店は息子達に任せたのです

それでも引退しても家業の相談には乗り最期まで三井家の繁栄の為に力を尽くしていました
三井高利が亡くなった後は遺言により三井家の事業は子供達で共同経営する事になります

子供達は「三井11家」と呼ばれる家を立てて独立をします
男子の6家が本家です
婿取りの三井家が連家と呼ばれて9家です

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後に連家が二つ増えます合わせて11家が三井一族を構成しました
三井高利の長男である高平はこの三井11家を守る為に一族の団結や毎年の収入を各家で割合を決めて分配をする事にしました

家憲「宗竺遺書」としてまとめています
三井家では代々この家憲を大切に守りつつ団結を深めながら栄華を共有していました
こうした先進的な体制が幕末から維新の混乱時期を乗り越えて成長する原動力になっていました

明治以降にになると新しく「三井財閥」として近代日本の財界をリードしてなんと日本一の財閥にまで成長します

ちなみに三井家の家訓では大名貸しを禁じているそうです

天王寺屋や鴻池屋が潰れる原因になっていましたね、なんせ買お金を貸しても回収の期待は出来ず踏み倒される恐れもありますし、一旦貸すと抜け出せずに深みにハマってしまうからだそうです

実際には大名には全く貸さないという訳にもいかなかったのでしょうが、仕事としては大名貸しの割合は小さかったそうです

浅子の実家の三井家はタカトシの10男に当たる高春が建てました

京都の油小路出水に屋敷が有ったために出水家と呼ばれました
浅子の実家の財閥ぶりはこちらへ↓
あさの三井家からの嫁入り道具目録の内容が凄すぎる

母親梨江が没落した娘はつには家一軒与えようとしていました、はつがお金を受け取らないので代りにがなんとBIGな贈り物
はつに忠興と梨江からの最期の贈り物お父はんお母はんありがとう

のちには東京・小石川に移った為後に東京・小石川に移り住み小石川家と呼ばれておりました
↓「あさが来た」で明治維新に東京に三井家が旅立つ為にあさに挨拶に訪れるシーンはこちらへ
散切り頭になったあさの父忠興と弟久太郎改名・今井忠嗣の旅立ち


現在では京都の出水家跡には「ルビノ京都堀川」というホテルが立っています

三井家は幕末・維新の動乱を乗り切り、本業の呉服屋は業績が振るわなくなると見切りをつけ銀行業へと本格的に進出して明治以降に日本最大級の財閥である三井財閥になるのでした

昭和8年(1933年)の調査によると日本の富豪のトップは総資産額4億5千万円で三井総領家(三井高公)と三菱財閥の岩崎久弥(岩崎弥太郎の長男)上位20位までに三井家が10人エントリーされているという富豪ぶりだったとか

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この時の調査で広岡浅子の娘亀子の夫(婿養子)広岡恵三は90位で(総資産は2千万円)にエントリーされていたそうです

三井総領家(三井高公)の資産は広岡家の約22.5倍という数字になっていおり江戸時代には肩を並べていたはずが時代の変化とともに20倍以上の差がついてしまったようです

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