あさが来た 加野屋モデル加島屋の創業ルーツを歴史と系図から見る
NHKあさの連続テレビ小説は広岡浅子さんの生涯を描いていますが夫信五郎の生家である加島屋はどのように生まれて商売を大坂で広げて行ったのでしょうか
天下の台所である大坂で天王寺、鴻池屋と並んで流星を誇った加島屋の系図を紐解きたいを思います
加島屋に代々伝わる系図によると屋号が加島屋ですが苗字が広岡と言います
広岡氏の祖先ルーツは播磨の守護大名だった赤松氏です
源氏につらなる家系です
創業は寛永年間(1624年~44年)です
鴻池屋の山中氏は戦国時代の有名な武将である山中鹿之介の
長田氏の方の加島屋は後北条氏の子孫であるとそれぞれが主張しています
大坂の商人立ちは高名な武家に関連づけてはみずからの家計を権威づけていたのでしょう
成り上がりの大名が源氏や平家を末裔と言っているようなものです
大坂の豪商加島屋の創業は溯る事、寛永2年(1625年)初代の広岡久右衛門富正(正教)が御堂前に精
米業の店を開いて、加島屋と名付けたのがはじまりでした
大坂の陣で豊臣家が滅ぼされて十年、団台将軍家光が就任して、太平の時代がまさに始まった頃でした
徳川家によって再建中の大阪城が店からよくみえた頃でしょう
初代の久右衛門が始めた精米業はその頃は新しい商売でした
室町時代までは米は玄米を炊いて食べるのが一般的でした
お酒を作る時には精米をしますが杵と臼を使って糠をこすりとるのでたいそう時間がかかっていました
足踏み式の精米機を開発しました
大都市への人口の集中や町人の多くが白米を食するようになった事で需要がありました
この初代の久右衛門は精米業と両替商の2つの商売をしていました
商売は順調で、三代目の時に玉水町に店を移転させて米問屋を始めました
現在の大同生命本社ビルがある場所です
加島屋の名前の由来ですが、現在の大阪市西淀川区にありました加島村に由来します
貨幣の鋳造で知られた村でしたので、両替商にはふさわしい名前だと村の名前をそのまま引用したの
だそうです
文化十五年(1818年)加島屋が奉行所より「幕府の為に尽くした加島屋に褒美をつかわそう、ついて
は店の歴史を調べてまいれ」と命じられたもので調べられたそうです
ところが系図は初代久右衛門の父親までしか解らなかったそうです
記録が無くても現に店はあり現在では大同生命のビルが建っています
加島屋をさらに繁栄したのは広岡の宗家(初代の兄の家)から養子に来た四代目久右衛門が商才のあ
る人で堂島米市場の有力な商人として商いをひろげました
加島屋は「入替両替」と呼ばれる両替商で、世界初の先物取引所とも言われる米市場(堂島米会所)にも深く関りがあります
大名からの信頼も熱く全国の1/3に当たる百藩以上もの藩に大名貸しをしていました
この江戸時代の経済の中において米と金は密接な繋がりがあり入替え両替というのが加島屋は米市場との関わりからこの紙幣と同じ働きをする米切手を扱う入替両替を主な業務として財を成しました
幕末に没落していく本両替をメインに行っていた鴻池屋とはこの点が違っていたようです