NHK朝ドラあさが来た広岡浅子が関わった 商店・企業・団体のまとめ
銀行、保険業、炭鉱業を営む為に奔走したあさ
加島屋(広岡家)・・・大坂の豪商「加島屋」
江戸時代初期に精米業から身を起こしたと伝えられています
現在ある大同生命の基礎を築いたのが江戸時代の大坂の豪商である「加島屋(かじまや)」です
当時屈指の豪商となり、当時政界最先端の金融市場と言われた同島米会所システム、そして収益の大きな柱となった大名貸しなどの画期的なビジネスモデルがありました
現在の大阪本社ビルにあるこの地には加島屋は店を構えていました
広炭商店・・・開業しました(社長は夫の広岡信五郎)石炭業に進出する
潤野(うるの)炭鉱・・・明治維新による時代の変革の中で両替商を営む者の多くが経営難に陥りました、加野屋もその中の一つです
浅子が目を付けたのが石炭でした
三井家からの持参金や嫁入り道具を処分して資金を作りました
日本近代化の主力エネルギーとなる石炭は当時は注目の的でしたただ一般人には未知の事業でしたので事故の危険性も高く手働く労働者の中には荒くれ者も多いなどと男性もためらうほど経営には様々のリスクがありました
それでも傾きかけた加野屋の収入の柱にすべく1886年(明治19年)筑豊の炭鉱事業者より現在の福岡県飯塚市にあった潤野炭鉱を買い取りました
最初は若い女が来たと相手にもされませんでしたが鉱夫達も徐々に「すごい女だ」と感心するまでになりました
浅子は労働条件や待遇を改善し大胆な投資と行動力に、いつも乱暴を働いていたような者までもが服従したといいます
姉御(あねご)と言って慕われるまでになりました
最初はなかなか思うように石炭は産出されませんでしたが、浅子が現地に赴いて自ら経営に参画し1897年(明治30年)から産炭料が増加反転して優良事業として生まれ変わりました
潤野炭鉱は1989年(明治32年)に官営製鉄所に売却されて二瀬炭鉱となり、その後昭和初期には日本製鉄に経営が移りました
加島銀行・・・明治維新後に近代的通制度や銀行制度が徐々に確立されていく中で広岡家は1888年(明治21年)に加島銀行を設立しました
初代の頭取には第9代当主である広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)が就任しました
とても数字に強い浅子は銀行経営で敏腕を振るいました
資料なども迅速に作り常に先を読む経営だったそうです、浅子が設立に果たした役割は大きいかったと言われています
大同生命保険・・・大同生命の創業者の一人は広岡浅子さんです
1899年(明治32年)には経営に行き詰った真宗、保険を引き受けて朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは異なります)と改称して保健事業にも乗り出しました
ところが当時は大小の保険会社が乱立しており、経営は思わしくありませんでした
そんな時に浅子は加島屋再興の為に優秀な人材を探していました
そこで親交のあった成瀬仁蔵が推薦したのが当時の文部大臣である
西園寺公望の秘書を務めてていた中川小十郎です
中川小十郎を見込んだ浅子は1898年(明治31年)広岡家の事業に中川を招聘(しょうへい)します
その後1902年(明治35年)には朝日・護国・北海の3社の生命保険会社の合併により大同生命保険が創立しました
そのしてその後は順調に成長しました
この合併の時に責任者として大同生命保険誕生の立役者となったのが浅子が招聘した中川小十郎でした
この時も浅子の英断がきっかけとなって今日まで続く保険会社が誕生したのでした
尼崎紡績(ユニチカ)・・・家運の傾いた加島屋に対して浅子の実家である三井家は「事業を整理しなはれ」と忠告しました
それを受けて広岡久右衛門と広岡信五郎は銀行業と紡績業に絞り両替商から上手く転身しました
加島銀行と尼崎紡績(後のユニチカ)を設立しました
銀行と紡績会社の実質経営に奔走したのは広岡浅子でした
女ではまだ相手にされない時代だった為に表向きは夫が社長を務めましたが大隈重信や伊藤博文や五代友厚などの明治政府の要人も手を差し伸べたそうです
日本女子大学校・・・1896年梅花女子校の校長・成瀬仁蔵が浅子を訪問して、成瀬仁蔵の著書「女子教育論」を手渡す
幼少の頃に父親から女には学問はいらんといさめられて育ってきた経験を持っていたので成瀬仁蔵が説いている女子高等教育期間設立の考えに共感しました
金銭はもとより浅子の実家でもある三井家にも頼み込んで目白台の土地を寄付してもらいました1901年の日本女子大学校(日本女子大)設立に導きました