NHK朝ドラあさが来た 日本女子大創設を支援したのは浅子さん
日本初の女子大学校設立を志していた成瀬仁蔵の書いた本
潤野炭鉱への出張の時に成瀬仁蔵さんの著「女子教育」を読んで広岡浅子さんは涙を流すほど感動しました
なんと3回も読んで成瀬仁蔵さんを支援する事を決意したそうです
書いてある内容とは女子も男子に劣らず仕事ができるはずであるとの考えです
日頃から女性も男性同様に知識を身につけるべきだと考えていた浅子さんの元に1896年(明治29年)訪ねて来たのでした
女子高等教育の必要性を唱える「女子教育」を書いた上に日本初の女子大学校設立を志していたのです
幼いころ寺子屋でこっそり勉強をしていたら父親にこってり叱られた浅子にとって夢のような本だったでしょうね
山林王として知られる実業家の土倉庄三郎と共に各5000円(現在の紙幣価値では約1千万円に近い金額と思われます)を寄付し設立発起人に一人となってその計画立案にも関わりました
浅子は大隈重信や伊藤博文や渋沢栄一や三井家や岩崎家といった財閥の人々など政財界の大物を成瀬仁蔵に紹介しました
歴史上の重要人物との関わりが沢山あるのにも驚かされます
学校設立の為の協力や寄付金をとりつけようと東奔西走します
そうした尽力が結実して実家の三井家からは東京目白の土地が寄贈される事になりました
1901年(明治34年)に国内初の女子高等学校教育機関、日本女子大学校が開校しました
浅子の晩年は病気を患った後に洗礼をうけてキリスト教を信仰した浅子ですが1919年(大正8年・享年71歳)亡くなるまで女子教育や女性の社会進出を促す為に経済支援と活動を続けました
女子大学は開校時には大学部の入学者が222名、付属高等女学校全学年の入学者が288名でした(日本女子大学調べ)