あさが来た ヒロインのモデル加野屋・広岡浅子の生涯早わかり年表
NHK朝ドラは幕末京都で呉服屋と両替商を営む豪商今井家に生まれた今井あさの生涯を描きます
日本に女性の実業家などは、ほどんど実在しなかったような時代に自ら炭鉱事業や銀行事業や生命保険事業などの経営に関わり大阪財界で女丈夫(じょじょうぶ)として名の知られた人物です
時代を先駆けた女性・広岡浅子の生い立ち
幕末から明治にかけて、女性が社会の表舞台に出る事は珍しかった時代、そんな中、今回のNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」主人公あさのモデルである広岡浅子は炭坑事業、銀行事業、保健事業など新しい分野に次々と挑戦して悪戦苦闘しながら成功していきます
座右の銘が「九転び十起き」の精神の持ち主でした
ヒロインあさのモデルである広岡浅子さんは1849年(嘉永2年)京都の豪商である油小路通出水(あぶらのこうじどおりでみず)の出水三井家(のちの小石川三井家)の第6代当主である三井高益(みついたかます)の4女として生まれました
母親は三井高益の妾で名前は不明です
幼名は照(てる)といいました
姉のはつ(実名は春)も三井高益の別の妾の子である
「朝が来た」ドラマでは弟がいるが実際には26歳年上の兄、高喜(やはり腹違い)がいる
数え年の3歳になった時に七代目当主・高喜(たかよし)の義妹として三井家に入家ました
はじめから広岡家へ嫁入りする事を前提とした入家だったのでしょう
同じように豪商へ嫁入りを前提として入家した浅子の異母姉である春は「養女」とされています
いずれも政略結婚でした
男勝りな所がありまして親からは「女子に学問は不要」と言われても儒教の本などを読んでいたといいます
・浅子は15歳(数え年)に結婚しました
お相手は御年2歳の時から許嫁にきまっていたという大阪で有数の両替商を営んでいる豪商・加島屋の次男坊・広岡信五郎です
信五郎は浅子の8歳年上でした
嫁いで間もなく浅子は番頭に任せきりの加島屋の経営に危機感を感じて夫とともに漢字や儒学、商業を学んで算盤(そろばん)の稽古を始めたそうです
やがては明治維新が始まり、加島屋は多くの藩に貸付していた金が返済されなくなってしまいます
そこで危機に直面する事になります
浅子が嫁いだのは信五郎の父正饒(まさあつ)の頃です
八代目の正饒は明治2年他界します
加島屋の長男喜三郎が早世したため、正饒の3男である正秋が20代半ばで9代目の跡継ぎとなり後継者になりました
分家の養子になっていた次男の信五郎は妻浅子と共に正秋を支えました
朝の連続テレビ小説「あさが来た」では正吉が引退して新次郎の弟である白岡栄三郎(えいさぶろう)が身代を継ぐ事になりました
↓あさも特別に席につくことを許されました
加野屋久左衛門(白岡榮三郎)250年続く豪商を襲名
正吉が病気に・史実の第八代広岡久右衛門正饒の人生は?
↓引退後正吉は静かに人生の幕を閉じたのでした
あさに店を頼むと託して正吉が旅立つ加野屋の一つの時代の終わり
浅子は自らの家業の経営にあたり、その後には35年にも渡って加島屋の再興に力を尽くします
・浅子が27歳の時に一人娘の亀子が生まれます
・35歳の時に石炭の海外輸出を主な業務とする「広炭商店」を設立しました(社長は夫の信五郎です)
その後「日本石炭会社」を設立して筑豊の潤野炭坑の経営に参加しました
浅子が37歳の頃、潤野炭坑を買収(名義は信五郎です)しまいたが断層に阻まれて採掘は進みませんでした
↓ドラマの「あさが来た」では新次郎の幼馴染みが落盤事故を仕組み大阪の加野屋へやってきます
松造が新次郎に最後の願いと正吉がふなはし屋の黒糖饅頭を出した理由?
・39歳の時に加島銀行を設立して、頭取には広岡久右衛門正秋、相談役に信五郎
信五郎は翌年には尼崎紡績会社(現在のユニチカ)の初代社長にも就任しました
・46歳の頃、前年に休鉱に追い込まれた潤野炭坑の再開発を開始しました
この時浅子は自ら炭鉱におもむきました、その時にピストルを懐に鉱夫達を監督していたと言われています
その2年後に石炭産出量が急増しました
・47歳の頃に成瀬仁蔵と出会いました、女子大学創立の支援を始めました
・50歳の頃広岡久右衛門正秋真宗生命社長に就任しました
広岡家が保険業へ進出しました
その時に朝日生命と改称(現在の朝日生命とは別会社です)この時には所有していた潤野炭鉱を官営製鉄所に売却しました
・52歳の頃、支援が実って東京目白台にに日本女子大学校が開校されました
浅子は評議員として開校後も支援を続けました
・53歳の頃、生命保険会社の朝日・護国・北海の3社を合併して大同生命保険が創業されました
社長は広岡久右衛門正秋
1904年(明治37年)浅子が55歳の時、広岡信五郎が亡くなりました
これを機に浅子は実業界の一線から身を引きます
浅子が20代後半で産んだ長女の亀子の夫で婿養子の広岡恵三(ひろおかけいぞう)が家督を継いでからは女子教育や婦人運動に力を注ぎました
・60歳の頃、乳がんがみつかり東京大学病院で手術を受けます
このころから精力的に新聞や雑誌に寄稿します
この頃に広岡家9代目当主の広岡久右衛門正秋が亡くなります
・62歳の頃、大坂教会で洗礼を受けてクリスチャンになります
大坂教会の宮川経輝牧師にから講義を25回聞いてついには洗礼を受け、伝道活動やキリスト教系の新聞雑誌への寄稿にも力を注ぎました
浅子は晩年も全国を飛びまわり、人の為社会の為に女性の地位向上の為に命を燃やしたのです
その後には日本YWCA中央委員、大坂YWCA創立準備委員長を歴任します
・65歳のこと静岡県の御殿場で女性の為、夏季勉強会を主宰します
これ以降には毎年開催しました、主な参加者には市川房枝・村岡花子、井上秀などがいます
・69歳の頃、著書の「一週一信」を上梓しました
・70歳の時・1月14日、東京の麻布材木町にある広岡別邸で亡くなりました、享年69歳
美しい花々に囲まれて、静かな最期だったと言われています
「遺言はしない、普段言っている事がすべて遺言」そんな言葉だけを残し浅子さんは天へと旅立ちました
告別式は東京の神田青年会館と大坂の土佐堀青年会館で執り行われました
広岡朝子の生涯・早わかり年表
1849年・三井高益の4女として生まれる
1865年・広岡信五郎と結婚のため大阪の豪商・加島屋に嫁ぐ
1885年・筑豊の潤野炭鉱を買収して炭坑開発に着手する
1888年・加島屋を母体にして、加島銀行を設立する
義理の弟である広岡正秋が初代頭取に就任する
↓銀行設立のいきさつと現在はこちらへ
加野銀行のモデル広岡浅子が設立した加島銀行の現在は?
1896年・梅花女学校校長・成瀬仁蔵と出会う
1901年・日本女子大学校が設立
1902年・大同生命が誕生・広岡正秋が初代社長に就任する
1904年・浅子の夫・広岡信五郎が死去
婿養子・広岡恵三に銀行事業を譲る
1909年・広岡正秋が死去
1911年・キリスト教に入信、日本キリスト教中央委員になる
1914年・御殿場の避暑別荘で夏季勉強会を開催する
1919年・広岡浅子死去